IE9ピン留め
楽しむ「才能」
「仕事」に対する価値観について、昨日すごく興味深い話を聞けた。

仕事で得られるものは「お金」だけではない。
どういう価値を見出すかということ。

当然、やるからには、その時間を充実したものにしたい。
どんなことでもプロフェッショナルにはなれる。
やりがいは見出せる。

自分自身の成長。
視野の広がり。

いろいろなものに触れて、新たな物に出会い、自分が変わっていく。
それが実感できたとき、お金以上のものを手に入れられたのだと思えるのだろうか。

自分が働きやすいような環境を作っていくことも、仕事をする上で大事な「仕事」。
人を育てることも、大事な「仕事」。

仕事行ってのは、与えられたものだけじゃなく、それをどうこなすか、どう生かすか、どうやって自分のものにして行くか、というところに価値があるのかな。

だから、新たなことや新たな環境にチャレンジするのは、すごく価値があるって。

でも、そうやって言い切れるその人は、どんな環境でも、状況でも、それを楽しめる「才能」があるんだろうな。
そうやろうと思ったって、やってみたって、どう思えない人もいるはずなんだ。

やろうと思うことじゃなく、やっていることが自然にそうなっていることこそ、その人の才能なんだって思った。

4月からのことを考えて、やっぱりすこし不安になったりするから、そういう話を聞けてすごくよかった。
前向きに考えられそうなキッカケをもらった気がする。
# by sozinho | 2008-02-17 19:02
「聞く耳」を持つ。
どんな言葉に耳を傾けるべきだろうか。

いろんなひとが、さまざまな価値観でものを言う。
当然、それはそのひとの自由。

でも、それにすべて付き合っていては、とてもじゃないけど消化しきれない。
大切なのは、それが大切な言葉なのか、それtも雑音なのかを聞き分けること。

ひとを批判するのは簡単だから、傷つけるために発せられた言葉なんて、意味はない。
お世辞だってそう。

だから、自分のためを思ってくれる人の言葉を大切にしようって思うんだ。
よい言葉には自信を持とう。
たとえ厳しい言葉でも、しっかり受け止めよう。

いつか見返そう、なんてこと自体必要ないよね。
だって、目指している場所が全く違うのだから。

もちろん、立ち止まってなんていられない。
もっと先を見つめて歩いて行くんだ。



# by sozinho | 2008-01-12 23:26
強くなる。
今年の目標は、強くなる、こと。

わざわざ新年だからどうこうということに、あまりこだわりはないのだが、それでも「キッカケ」とするには、よい区切りかもしれない。

気持ちの面で。

弱い自分を隠したり、逃げたりするのではなく、そういう自分に向き合って強くなる。
不安も正直に感じ、それでもそこから前へ進む道を見つけ出したいということ。

4月からの生活に、未だ不安を感じている。
日々、いろいろなことを考えてしまう。
しかし、これが自分の性格なのだ。
そう割り切って、向き合っていこうと思う。

正直、教員という仕事にはあまり興味がない。
どちらかというと、というか、確実に「生活の手段」という位置づけである。
そのため、その仕事に追われてしまうということが不安なのだ。

それでも、やると決めたからには、前に進むしかない。
やってみて、それで「どうだったか」ということが大事なのだろう。

当然、合わない可能性もあるし、逆に新たな発見でやりがいを感じられる可能性もある。
また、専任という今までとは違った「責任」ある立場だからこそ、自分の力で変えて行ける可能性も十分にあるだろう。

授業にしても、独自色をどんどん出せる場である。
楽な方へと考えるより、自分が楽しんでできる環境を作ってしまえば、もう負担ではないはず。
課題や取り組み方を研究する価値はおおいにある。

サッカーについては、関われるかどうかの保証はない。
しかし、焦ることもないと考えている。
いきなり飛び込んで、いっぱいいっぱいになってしまうより、少しずつ関わっていく方が自分のペースも作りやすい。

必要とされてこそ、自分の意見も聞いてもらえる。
だからこそ、聞かれたら答える、という姿勢が大事なのだ。

できる仕事は率先してやる。
しかし、抱えこまない。
頼まれ事は、即答せずによく考えてから、可能であれば引き受ける。
無理であれば、しっかりと断る。

自分にとって、いままではサッカーが一番大切なものであった。
これからもそれは変わらないだろう。
しかし、それだけに関わっていける環境ではないところへ行くのだ。

多くの、別の要素も考えて出した結論。
たくさん悩んだ末の結論だから、やってみる価値はあるのだと思う。

自分が成長するために、自分の未来のために、新たなチャレンジだと考え、進んでいこう。
サッカーに関わっていく「ひとつの」選択肢ではあるわけだから。


# by sozinho | 2008-01-10 22:18
サッカーをするワケ
選手はなぜサッカーをするのであろう。
理由は、目的は、何であろう。

うまくなり、思い通りのプレーをする。
それによって、サッカーを楽しめる、ということではないだろうか。

その先の結果が、「活躍」であり「勝利」なのであって、「勝利」のためにサッカーをやっているのではない。
そこを間違えてしまうと、どんなことをしても勝てばOKとなってしまう。

もちろん、選手によって価値観はさまざま。
どんなことをしても勝ちたい、と思う選手もいるだろう。

であれば、手段を選ばず勝負に徹するサッカーになる。
果たして、それがサッカーと呼べるかは別にして・・・。

試合は、練習してきたことを試す場である。
ということは、練習でやってきたこと=自分たちのやりたいことでなくてはならない。
練習でさえもサッカーを楽しめないような場であれば、試合で楽しめるはずもないのだから。

選手がうまくなること、そのためのサポートこそがコーチの一番大切な役割。
決して、「勝たせること」が役割ではない。

何のために選手がサッカーをやっているか、そこをもう一度見つめなおさなければならない。
# by sozinho | 2007-06-28 22:27
代表レベル?
昨日の代表戦、高原のゴールについて、駒野のクロスが絶賛されていた。
だが、それ以前もマイナスに外れまくったクロスなど多く、正直、あれだけ放り込んでいれば1つくらいあたらなくてどうする?といった印象であった。
持ったらクロス「しか」ない選手である。
当然、相手DFも「読める」はず。
あのレベルならそれでも良いのだが、相手がCBの強い世界レベルのチームならことごとく跳ね返されて終わっていただろう。

よっぽど、後半から出場した水野のほうが、多くの可能性を持ったプレーをする。
「どんどん自分から仕掛けることが出来る選手ですね」という解説者のコメントは、駒野のプレーに物足りなさを感じていた証拠だろう。

ただクロスだけ蹴り上げている選手が、dぴして代表レベルなのだろうか?疑問が残る。

もうひとつ。
後半、高原のスルーからケンゴのシュートシーン。そのとき、左サイドにはフリーで山岸がいた。
そのプレーが終わった後、オシムのコメントのリポートが入ったのだが、そのリポーター、レベルの低さが現れていた。

オシムが「パスを出せ」と言っていた?
そうではないだろう。
言いたかったのは山岸が「見えていたのか?」ということではないか。
見えていて、シュート判断であったのか、見えずに打ったのか。
そこはサッカー選手として大きな違い。

その言葉の意味も分からず、ただ「パスを出せ」という低脳なリポートしか出来ない「元日本代表FW」。
解説とは、直訳ではなく、その背景にある考えを「解説」してほしいということ。
見たまま、聞いたままを伝えるのなら、アナウンサーに任せておけば良いのだ。

肩書きなどどうでも良いから、もう自分の考えているレベルの低さを知って欲しい。
まぁ、知っていればはずかしくてメディアに魂など売れないだろうが・・・。

大事なのは、選手の判断。
それも、その場面で一番良いと思われる判断をする、ということ。
それがクロスなのか、シュートなのか、ドリブルなのか、それは選手にしか分からない。
しかし、その「判断」こそが、選手の「サッカーの上手さ」を決めて行くのではないだろうか。

いつになれば、本当の「代表レベル」は現れるのであろう。
中田が去った今、期待を持てる選手は正直見当たらない・・・。
# by sozinho | 2007-06-02 22:33
器の大きさ
去年の部費の余りについて、どう扱うかという選手の会話。
今年の部費も、これから集めることを前提に、話が進んでいた。

A:みんなに返却して、今年の分はまた集めよう。

B:それよりは、今年の部活動に有効に使おう。

A:では、何に使う?

B:新入部員のユニホームに少し出してあげよう!
 登録費や部費も掛かるし、いきなりの出費だとすごく大変だろうから。

A:それは違くない?
 だって、うちらも自分たちで出して大変だったから。

B:だからこそ、じゃない?
 自分たちがつらかったからこそ、今は余裕あるのだから、助けてあげられるんじゃない?

A:・・・


Aは元部長、Bは現在の部長である。

明らかなる格の違い。
器の差。

Aは自分のことしか考えていないことを、恥ずかしく思ったに違いない。


「伝統」だとか言って、くだらないことを受け継いだり、後輩に押し付けたりすることが多いであろう部活動という世界の中で、このチームにはこういう考えをもてる選手がいるんだということが、すごく嬉しかった。
そして誇らしかった。

去年までの、いい加減なチームではなく、きっと良い方向へ進んでいくはずである。
そう確信した。

率いている選手の格が違うのだから。



# by sozinho | 2007-05-07 22:59
息苦しさ
ある強豪校の試合があったので、興味があって見に行ったのだが、開始前に帰りたくなるような雰囲気だった。

移動は駆け足、皆で声を出し返事は「はい!」。
荷物も整理されて置かれ、監督の一声で次の行動へ。

オーガナイズも「お決まり」なのだろう。
すぐに別の練習へと切り替わる。

一見、規律正しく統一されているように見えるのだが、選手はそこに「意味」感じているのだろうか。
を明らかに「やらされている感」が出ていた。

例えば、怒られるから「~をする、しない」という判断は、自己判断ではない。
他人の価値観に、ただしたがっているだけに過ぎない。

サッカーにしても同じ。
そのプレーに、その練習に、どんな意味があるのか選手が感じなければ、結局はやらされているだけ。
自分の力で得たものでなければ、その場を離れれば失ってしまうものである。

確かに、選手の技術は高いし、能力も高い。
セーフティーとつなぐ判断も、統一されている。

だが、どうしても選手のひらめきやアイディアを感じることは出来なかった。
やらされているサッカー、決まりきった判断。

息苦しがこみ上げてきて、開始10分でその場を離れた。

やっている選手はどう感じているのだろう。
それが当たり前であれば、疑問なども持たないのかもしれない。

どちらが幸せなのかはわからないが、自分には無理だと感じた。
それは、選手としても、指導者としても、である。


# by sozinho | 2007-05-06 00:42
選手のサッカー
TKFCの総体予選は、1回戦で敗退し、3年生は引退となってしまった。

試合は、アンラッキーな失点でリードされる苦しい展開。
それでも、選手たちは最後まであきらめずにボールを追った。

しかし、どれだけ練習してきたことが、目指すサッカーが出来たかと言うと、ほとんど出来なかった。

理由が、選手の自信のなさであるなら、練習の中で、自信を持てるレベルにまで届かなかった指導者の責任である。

だが、それでも、選手の「つなごう」という姿勢を、少しは見ることが出来た。
あれだけやったからこそ、やっとでた「少し」のシーンだったのだろうか。
選手は勇気を持ってボールをつなごうとしていた。

しかし・・・
ベンチからは、それを「蹴っておけ」という指示。
それを、選手はどう感じたのだろう。

もちろん、なかなかチャンスを作れない展開であり、ゴール前にボールを入れれば、チャンスになる「可能性」は高い、かに思われる。

だか、それは単なる「偶然頼み」であって、決して練習してきたことの成果ではない。
そこで、選手の中に「点を取れるイメージ」など、生まれてこなくても当然であろう。

だからこそ「なのか」わからないが、それでもつなごうとした選手がいた。
つないだほうが、チャンスを作れる、なぜならそれをずっと練習してきたから、と考えることこそ当然である。

しかし、ベンチはそれを尊重できなかった。
グランドに立つ選手がした「判断」であるにもかかわらず、である。

それは、ある意味、選手に対しての「裏切り」であろう。
選手を信頼していない証拠であろう。

それに対して、選手たちは疑問を感じたのだろうか。
それとも、素直に言葉を受け止めて、そうやろう、と前向きに思えたのだろうか。
それは分からない。
しかし、言われたことやろう、としていた選手も明らかにおり、チームとしての統一は崩れていた。

そして結局、なにも出来ないままの敗退。
しかも、やりたいことをチャレンジすら出来ないで終わってしまった。

悔しい、という気持ちの奥に、何が残っているのだろう。

たとえ負けたとしても、何も出来なかったとしても、やるべきことにチャレンジして出来なかった結果とは、大きく違うと。
それは、選手のサッカーではない、と。

指導者とは、あくまでもサポートであり、サッカーは選手のもの。
そう思いつつも立場上、強く言えずに、選手の意思を尊重できなかった責任は、自分にある。

今日、監督と話をして、今後は選手の意思を尊重したサッカーをやっていこう、ということを了承してもらった。
もう2度と選手を犠牲にはしたくない。

そう誓って、グランドに立つ。
# by sozinho | 2007-05-02 21:29
サッカーの楽しさって?
サッカーの楽しさって、何なんだろう?

自分は好きだから、今でもサッカーをやっている。
だから、サッカーをやることが、当たり前のことだし、そんなに深く考えたことないのかもしれない。
ただ、好きだから。

でも、今日のサッカーはつまらなかった。
つまらなかったから、終わったあとに、何とも言えぬ寂しさ?見たいなものを感じた。

やっぱりさ、自分はやるからにはどんな状況でも一生懸命やりたいんだ。
そうやって自分自身を追及して、で、出来なくて落ち込むこともあるけど。

でも、だからって楽しくないってことはないし、またグランドに向かってる自分がいる。

だけど、今日の場所にはもう行きたくないなって思った。
軽い気持ちや、自分勝手でやってる人とは、サッカーしたくないって。

もちろん、サッカーにもいろんな楽しさがあっていいと思う。
それぞれの価値観だから。

でも、価値観の違う人たちとは、どう考えても楽しめるわけない。
今日、楽しくなかった原因はそこなのかなって。
だから、サッカーに真剣に向き合えない人を見て、悲しくなったのかな、って。

それでもサッカーの日々は続いていく。
選手たちの楽しさってなんだろう・・・。

自分も選手の気持ちを忘れずにいたい。
# by sozinho | 2007-04-13 23:56
部活とクラブチーム。
選手時代には感じられなかった多くのことを、コーチになってから感じている。
それは、客観的にサッカーを捕らえられるようになったからでもあろうし、年齢から来る余裕もあるだろう。

選手には選手にしか得られないものが、コーチにはコーチにしか得られないものがある。
それは、喜びであったり、感動であったり、もちろん苦しさや辛さだってそう。

だが、忘れてはいけないことがある。
それは、選手時代の想い。
何を考え、何を感じ、何を欲していたかということ。

サッカーは、やはり選手のもの。
間違っても、指導者や親や、周りのものではない。

もちろん、サッカーをする上では多くの人の助けが必要となる。

だけど、やっぱりサッカーは選手のもの。


昨日はクラブチームのOBが高校卒業を機に集まってくれた。
中学3年間、サッカーを共有してきた仲間。
高校では、それぞれの道を歩みながら、サッカーに関わっていた。

その選手たちと、同じグランドで選手としてボールを追った。
後輩相手に勝負こだわり、激しくもフェアに、そして何よりもサッカーを楽しんだ時間だった。

進路もそれぞれで、サッカーを続けていく選手、そうでない選手、さまざまだ。

ただ、高校でサッカーを嫌いになってしまった選手がいたことは、サッカーに関わる身として非常に残念である。
あれだけ楽しそうに、サッカーをやっていたのに。

それは高校サッカーがまだ勝利至上主義によって行われている現状と、教育機関とサッカーの両立の限界でもあろう。

大事なのは、サッカーを好きでいること、サッカーを楽しめること。
その上で、勝利を追及していくからこそ、サッカーは魅力的なんだと思う。

全国大会に行ったチームの選手でさえ、もう辞めたい、と思っているのだという。
プロに行く選手でさえも。

それは、サッカーが嫌いと言うよりは、その環境が問題なのだろう。
やらされているサッカー、押し付けられるサッカー。

だからこそ言いたい、サッカーは選手のものでは?

目先の勝利や成績にとらわれすぎる指導者の犠牲になっている選手が、何人いるのだろう。
上手いからえらい?下手だからダメ?
人間性までも否定されるものではないはずだ。

その選手にあった取り組み方、追求の仕方があるはずで、どうやって選手自身が自分に向き合って関わっていくのか。
学校の部活動だからこそ、そういったことが出来るのではないだろうか?

多くの選手がサッカーを大好きなまま大学や社会に出て行ければ、もっともっと社会的地位も上がるはず。
皆がサッカーを楽しめれば、それだけで環境は増え、機会は増え、そういったなかで、本当に才能ある選手たちが生まれてくるのではないだろうか。

選手を作り出す?育てる?のは、クラブチームの役割である。

人を育てることこそ、学校教育というなかに置ける部活動の役割ではないだろうか?

現実的に、人数のもんだいなど厳しい部分もあるが、だからこそ、サッカーに関わる役割分担を明確にし、選手の育成だけでなく、サッカー界全体の発展を考えていかなくてはならない。
# by sozinho | 2007-03-19 10:36


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